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古川祭に関する調査・研究のこれまでの成果を報告

印刷用ページを表示する掲載日:2023年7月3日更新

6月29日(木曜日)古川町公民館

古川祭の歴史や史料などをまとめた書籍『古川祭史』の発刊に向けて調査・研究を進めている飛騨市古川祭史編集委員会(福井重治委員長、委員6人)が、これまでの調査内容に関する途中経過を報告する「第2回古川祭史市民講演会」を古川町公民館で開きました。

今回は、古川祭を執り行う気多若宮神社に焦点をあて、同編集委員会の福井委員長が「杉本社から気多若宮神社に」、本永義博さんが「神様を迎える~神輿の巡幸と当番会所・塩の道」と題し、昔の写真や絵図を示しながら記録から読み取れる事実、考察などを紹介。会場には市民ら約70人が訪れました。

福井委員長は祭りの定義について解説したり、もともと秋祭りだった古川祭が、当時隆盛を誇っていた製糸会社の都合や庶民の生活のために春祭りへと移行された経緯などを話しました。同神社に祀られている祭神が、現在は大己貴神・御井神とされていますが、江戸から明治初期にかけては実ははっきりしておらず、分からない部分が多いとも説明。また、明治御一新による国の方針変更があり、「杉本社」から「気多若宮神社」に社号が変えられたことも紹介しました。

他に、初代古川町長の桐山源兵衛が明治時代に記した身辺雑記の内容を一部紹介しました。他の記録では「目覚まし太鼓」と記されていても、庶民はずっと「起し太鼓」と呼んでいたと分かる記述があると説明。市井の人々が実際にはどのように祭りと接していたかなど、記録からは読み取れない庶民の暮らしがあると強調しました。

本永さんは、昭和9年頃のものと思われる写真を示し、過去2回だけ行列に2基の神輿が巡幸した事実があることなどを紹介しました。また、行列についての調査から、もともとは神輿を先導する役割として屋台も行列に加わっていたことや、それが台名旗に変わっていった変遷などを説明。行列を迎える際、かつては赤土で「神様の道」を用意していましたが、昭和50年代に塩で浄められるようになったことなど、氏子の皆さんの変遷についても報告しました。

他に明治22年の資料では起し太鼓の出立時刻が「4月20日午前2時~4時」とされており、昔は祭りは1日だけで、江戸時代には御旅所は無かったか、あっても簡素なものだったと考えられること、明治以降に屋台の集合時間が遅くなる一方、起し太鼓は観光向けに前日へ繰り上げられ、両者が分離されるようになったことなども説明しました。

参加した宮本組の清水正明さんは「神輿が2基というのは珍しく、私も知らなかった。今まで分からなかったことがいろんな資料で分かるようになったり、地元の人が祭りの歴史について知るのは伝承にもつながり、良い試みだと思います。次回も参加したい」と話していました

 

講演会の様子(1)

講演会の様子(1)

 

​講演会の様子(2)

講演会の様子(2)

 

講演会の様子(3)

講演会の様子(3)

 

講演会の様子(4)

講演会の様子(4)

 

講演会の様子(5)

講演会の様子(5)

 

講演会の様子(6)

講演会の様子(7)

 

講演会の様子(7)

講演会の様子(7)

 

講演会の様子(8)

講演会の様子(8)

 

講演会の様子(9)

講演会の様子(9)